1. 본문



責任というもの


君は、責任ということを考えたことがあるか。

児童公園で友達と野球をやっていて、君の打ったホームランが、通りをへだてたよその家のガラス戸を割ってしまう。その家の人が出てくる前に、みんなにげろと言って、公園から出てしまう。これは無責任だ。



もし君がふみとどまって、その家にいって、「わたしが割りました。ごめんなさい。」と言ってあやまれば、君は、あやまちに対して責任を負ったことになる。



ところが、君たちが公園からにげ出そうとしたとき、校長先生が通りかかって、君に、「たとえあやまちにしろ、物をこわしたら、持ち主にあやまらないといけない。」と注意されて、君があやまりに行ったとしたら、これは、君が生徒の義務を果たしたことになる。

責任と義務とどこがちがうかといえば、責任というのは、どこまでも君自身が、自分の意志でやることで、義務というのは、ほかからのカでやることだ。


わたしは、義務よりも責任のほうが、人間には大事だと思う。

世の中に起こってくる不都合なことを防ぐのに、法律や規則をたくさん作るのは、義務で人をしばるやり方だ。法律や規則は、見付かりさえしなければ、うまくにげることもできる。それをさせまいとすれば、見張りをたくさん立てて、にげられないようにせねばならぬ。そうすると、世の中はきゅうくつで困る。


法律や規則で人をしばるよりも、人間に自由にさせて、その良心を信用するのが、民主主義のやり方だ。

自由にさせると、人間は気ままになって悪いことをする、というのは、人間を信用しない人の言うことだ。人間が本当に自由だったら、自分の性格に合わせて、自分の人間を自由らしくつくり上げることができる。自分のような人間は世界じゅうにただ一人だ、というほこりがあったら、それを守りたくなる。それが、人間の威厳というものだ。


責任というのは、自分の威厳にふさわしいようにふるまおうということだ。それだから、自由は、気ままをつくるものでなく、責任をつくるものなのだ。





(二)もう 一度考える


「同感できても、もう一度考えるがいい。 同感できなくても、もう一度考えるがいい。」 これは、中国の古い書物に出てくる言葉である。


我々は、さまざまの意見に対して、そのときのとっさの感じだけで賛成することがある。 遊ぶときとか、気軽なことならそれでもいいが、大切な問題については、その主張にたとい賛成のときでも、もう一度よく考えてから賛成するといった態度こそ大切であろう。

こんなことは分かり切ったことだが、いざとなると、なかなか実行できないものである。特に、大勢の人が賛成しているときなど、ついふらふらと自分も巻きこまれやすい。そのとき、たとい自分ではよく考えたつもりでも、いざ決定のときは、もう一度考えてみることーこのしんちょうな態度を身に付けたいものである。


なぜなら、賛成いたことに対しては、各人が責任を持たなければならないからだ。自分の賛成したことを、自分はどの程度に実行できるか。そのときの自分のなしうるはん囲を十分考え、どうしても自分は実行できないと思ったち、なぜかと自分に問うてみることだ。必ずどこかに無理があるにちがいないからだ。その無理をごまかしておくと、人間は、体裁屋かぎぜん者になってしまう。


今度は逆に、同感できない場合を考えてみよう。自分は反対だが、果たしてそれが正しいかどうか、もう一度よく考えることだ。自分の意見に反対の意見が出されたときも同様で、すぐ反発したりしないで、自分はまちがっているかもしれないと、もう一度考え直してみる必要がある。ひとがら非難こうげきされると、だれでも気持ちがよくないのは当然だが、人間というものは、実は、非難こうげきされて、それをどう受け止めるかによって成長の大切な原因なのである。


このことは、少数派の意見にもしんちょうに耳をかたむけよという心にも通ずるであろう。議会や大きな組織では、結局多数決で決める以外にないし、そこで決まったことを承認するのが民主主義のルールだが、この場合、少数派の意見は必ずまちがっていると断定してはならない。たとい少数でも、反対である限り、それだけの理由があるにちがいないからだ。

多数派の主張すなわち真理だと決めることはできない。人間のやることには必ず欠点があるのだから、少しでもそれを指てきした人に対しては、十分その心をくみ取るように努めることこそ、民主主義というものであろう。最後には多数決で決めるにしても、その決め方に問題があるのだ。もう一度考え直してみるだけの余ゆうがほしいものである。


「自分一人ぐらいはー。」といった気持ちが我々にはある。例えば、ごく小さなことだが、町を歩きながら、紙くずなどを捨てることがある。自分一人ぐらいそんなことをしても、町は広いのだから、たいしたことはあるまいと思う。しかし、みなが同じようにそう思うと、結局町は紙くずだらけになる。そして、だれが責任者か、おたがいに知らん顔をしている。おたがいになすり付けて、つまり無責任になるのである。

ある意見に賛成であろうと、反対であろうと、自分一人ぐらいどうでもいいと思うところから、無責任な状態が出てくるわけである。とにかく、どんな小さなことでも、「自分一人ぐらいはー。」といった気持ちは捨てる必要がある。必ず責任感をいだくこと。そのためにこそ、よく考えることが大切なのだ。よく考えて、そのうえでもう一度考えるという習慣を身に付けたいものである。簡単な賛成と、簡単な反対とは、どちらも無責任の表れである。


「じぶんひとりぐらいはー。」といったきもちがわれわれにはある。たとえば、ごくさいさなことだが、まちをあるきながら、かみくずなどをすてることがある。じぶん一人ぐらいそんなことをしても、まちはひろいもだから、たいしたことはあるまいとおもう。しかし、みながおなじようにそうおもうと、けっきょくまちはかみくずだらけになる。そして、だれがせきにんしゃか、おたがいにしらんかおをしている。おたがいになすりつけて、つまりむせきにんになるのである。





2. 본문(히라가나)



せきにんというもの

きみは、せきにんということをかんがえたことがあるか。じどうこうえんでともだちとやきゅうをやっていて、きみのうったホームランが、とおりをへだてたよそのいえのガラスとをわってしまう。そのいえのひとがでてくるまえに、みんなにげろといって、こうえんからでてしまう。これはむせきにんだ。


もしきみがふみとどまって、そのいえにいって、「わたしがわりました。ごめんなさい。」といってあやまれば、きみはあやまちにたいしてせきにんをおったことになる。


ところが、きみたちがこうえんからにげだそうとしたとき、こうちょうせいがとおりかかって、きみに、「たとえあやまちにしろ、ぶつをこわしたら、もちぬしにあやまらないといけない。」と ちゅういされて、きみがあやまりにいったとしたら、こらは、きみがせいとのぎむをはたしたことになる。

せきにんとぎむとどこがちがちがうかといえば、せきにんというのは、どこまでもきみじしんが、じぶんのいしでやることで、ぎむというのは、ほかからのカでやることだ。


わたしは、ぎむよりもせきにんのほうが、にんげんにはおおごとだとおもう。よのなかにおこってくるふつごうなことをふせぐのに、ほうりつやきそくをたくさんつくるのは、ぎむでひとをしばるやりかただ。ほうりつやきそくは、みつかりさえしなければ、うまくにげることもできる。それをさせまいとすれば、みはりをたくさんたてて、にげられないようにせねばならめ。そうすると、よのなかはきゅうくつでこまる。


ほうりつやきそくでひとをしばるよりも、にんげんにじゆうにさせて、そのりょうしんをしんようするのが、みんしゅしゅぎのやりかただ。

じゆうにさせると、にんげんはきままになってわるいことをする、というのは、にんげんをしんようしないひとのいうことだ。にんげんがほんとうにじゆうだったら、じぶんのせいかくにあわせて、じぶんのにんげんをじゆうらしくつくりあげることができる。じぶんのようなにんげんはせかいじゅうにただ一人だ、というほこりがあったら、それをまもりたくなる。それが、にんげんのいげんというものだ。


(に)もう いちどかんがえる

「どうかんできてき、もういちどかんがえるがいい。どうかんできなくても、もういちどかんがえるがいい。」 これは、ちゅうごくのふるいしょもつにでてくることばである。


われわれは、さまざまのいけんにたいして、そのときのとっさのかんじだけでさんせいすることがある。あそぶときとか、きがるなことならそれでもいいが、たいせつなもんだいについては、そのしゅちょうにたといさんせいのときでも、もういちどよくかんがえてからさんせいするといったたいどこそたいせつであろう。こんなことはわかりきったことだが、いざとなると、なかなかじっこうできないものである。ときに、おおぜいのひとがさんせいしているときなど、ついふらふらとじぶんもまきこまれやすい。そのとき、たといじぶんではよくかんがえたつもりでも、いざけっていのときは、もういちどかんがえてみることーこのしんちょうなたいどをみにつけたいものである。


なぜなら、さんせいいたことにたいしては、かくじんがせきにんをもたなければならないからだ。じぶんのさんせいしたことを、じぶんはどのていどにじっこうできるか。そのときのじぶんのなしうるはんかこいをじゅうぶんかんがえ、どうしてもじぶんはじっこうできないとおもったち、なぜかとじぶんにとうてみることだ。かならずどこかにむりがあるにちがいないからだ。そのむりをごまかしておくと、にんげんは、ていさいやかぎぜんしゃになってしまう。


こんどはぎゃくに、どうかんできないばあいをかんがえてみよう。じぶんははんたいだが、はたしてそれがただしいかどうか、もういちどよくかんがえることだ。じぶんのいけんにはんたいのいけんがだされたときもどうようで、すぐはんぱつしたりしないで、じぶんはまがっているかもしれないと、もういちどかんがえなおしてみるひつようがある。ひとがらひなんこうげきされると、だれでもきもちがよくないのはとうぜんだが、にんげんというものは、じつは、ひなんこうげきされて、それをどううけとめるかによってせいちょうのたいせつなげんいんなのである。


このことは、しょうすうはのいけんにもしんちょうにみみをかたむけよというこころにもつうずるであろう。ぎかいやおおきなそしきでは、けっきょくたすうけつできめるいがいにないし、そこできまったことをしょうにんするのがみんしゅしゅぎのルールだが、このばあい、しょうすうはのいけんはかならずまちがっているとだんていしてはならない。たといしょうすうでも、はんたいであるかぎり、それだけのりゆうがあるにちがいないからだ。たすうはのしゅちょうすなわちしんりだときめることはできない。にんげんのやることにはかならずけってんがあるのだから、すこしでもそれをゆびてきしたひとにたいしては、じゅうぶんそのこころをくみとるようにつとめることこそ、みんしゅしゅぎというものであろう。さいごにはたすうけつできめるにしても、そのきめかたにもんだいがあるのだ。もういちどかんがえなおしてみるだけのあまりゆうがほしいものである。


あるいけんにさんせいであろうと、はんたいであろうと、じぶんじとりぐらいどうでもいいとおもうところから、むせきにんなじょうたいがでてくるわけである。とにかく、どんなちいさなことでも、「じぶんひとりぐらいはー。」といったきもちはすてるひつようがある。かならずせきにんかんをいだくこと。そのためにこそ、よくかんがえることがたいせつなのだ。よくかんがえて、そのうえでもういちどかんがえるというしゅうかんをみにつけたいものである。かんたんなさんせいと、かんたんなはんたいとは、どちらもむせきにんのあらわれである。




3. 단어 + 문법




責任 せきにん 책임
きみ
考え かんがえ 생각
児童公園 じどうこうえん 어린이 공원
友達 ともだち 친구, 동무, 벗
野球 やきゅう 야구
うつ 치다
通り とおり 길,통함
いえ
ガラス がらす 유리
문짝, 창문
って わって 깨고
出てくる でてくる 나오다
前に まえに 전에
げろ 자백
言って いって 말하고,하고
もし 만약,만일
ふみとどまる 단념하다, 참고 견디다, 그만두다
割り
謝る あやまる 사죄하다, 사과하다
あやまち 잘못
対する たいする 대하다
負う おう 지다,짊어지다,떠맡다
ところ   곳,장소
逃げ出す にげだす 도망가다
校長先生 こうちょうせんせい 교장 선생님
通りかかる とおりかかる 마친 지나가다
喩え たとえ 비록,설령
ぶつ 물건
壊す こわす 파괴하다, 부수다, 파손시키다
持ち主 もちぬし 소유자, 임자
いけない 안 된다
注意する ちゅういする 주의를 주다.
あやまり 실수
行ったとしたら いったとしたら 갔다면
生徒 せいと 학생
義務 ぎむ 의무
果たす はたす 완수하다, 다하다, 달성하다
ちがう   다르다
かといえば ~인가 하면
自身 じしん 자기, 자신, 스스로
自分 じぶん 자기, 자신, 스스로
意志 いし 의지
義務 ぎむ 의무
ほか 외부
遣る やる 하다
より ~보다
ほう ~쪽
大事 だいじ 중요함
思う おもう 생각하다
世の中 よのなか 세상
起こる おこる 일어나다,발생하다
不都合 ふつごう 불편함
防ぐ ふせぐ 막다
法律 ほうりつ 법률
規則 きそく 규칙
沢山 たくさん 많이,많음,충분함
作る つくる 만들다
縛る しばる 묶다
やり方 やりかた 하는 방식, 처사, 짓
見付かる みつかる 들키다, 발각되다
さえ 조사 ~면
しなければ 하지 않으면
うまく
にげる 피하다
できる 되다, 이루어지다.
させる 시키다
まい ~하지 않을 것이다/~하지 않겠다
とすれば ~려면은/~다면
見張り みはり 망봄,지켜봄,파수꾼
立てる たてる 세우다
にげられない 못 도망가다
ように ~도록
せねばならぬ 해야한다/않으면 안된다.
そうすると 그렇게 되면
世の中 세상
窮屈 きゅうくつ 꽉 막힘, 갑갑함, 답답함
困る こまる 곤란하다, 어려움을 겪다.
しばる 묶어두다, 묶다
自由 じゆう 자유
~にさせて ~게 하고
良心 りょうしん 양심
信用する しんようする 신용하다
民主主義 みんしゅしゅぎ 민주주의
やり方 やりかた 하는 방식, 처사, 짓
気まま きまま 제멋대로함
~になって 행동하며
悪い わるい 나쁘다,못되다,좋지 않다
言う いう 말하다, 이야기하다
だったら ~다면/~이라면
性格 せいかく 성격
合わせる あわせる 맞추다
自由らしく じゆうらしく 자유스럽게
作りあげる つくりあげろ 만들어 내다
じゅう ~중
にただ 단-
誇り ほこり 자랑,긍지, 명예로움
あったら 있다면
守る まもる 지키다
たくなる 싶어진다.
威厳 いがん 위엄
相応しい ふさわしい 어울리다
ように 걸맞게
振る舞う ふるまう 행동하다
それだから 그러므로




4. 해석



책임이라는 것


너는 책임이라는 것을 생각해 본 적이 있느냐?
아동공원에서 친구들과 야구를 하다가 네가 친 홈런이 길가에 서버렸어 그 집 유리창을 깨뜨리고 만다.

그 집사람이 나오기 전에, 모두에게 떼를 쓰라고 해서, 공원에서 나가버린다.이는 무책임하다.
만약 네가 잠시 멈추고, 그 집에 가서, "내가 깨뜨렸습니다.미안합니다라고 말해 사과하면, 당신은, 실수에 대해서 책임을 진 것이 된다.


그런데 너희들이 공원에서 도망치려 할 때, 교장선생님이 지나가고, 너에게 '비록 사과하라, 물건들을 혼내주면 주인에게 사과해야 한다'는 주의를 받고 네가 잘못 갔다면, 이것은 네가 학생의 의무를 다한 것이다.
책임과 의무와 무엇이 다른가 하면, 책임이라는 것은 어디까지나 너 자신이 자신의 의지로 하는 것이며, 의무란, 다른 곳에서 하는 것이다.


나는 의무보다 책임이 인간에게는 중요하다고 생각한다.
세상에 생기는 불편한 일을 막는데 법과 규칙을 많이 만드는 것은 의무로 사람을 묶는 방식이다.법과 규칙은 들키지만 않으면 잘 풀릴 수 있다.그것을 시키지 않으려면 망을 많이 쳐서 도망치지 못하게 해야 한다.그렇게 되면, 세상은 꽉 막혀서 곤란하다.


법률이나 규칙으로 사람을 묶어두기보다는 인간에게 자유롭게 하고 양심을 믿는 것이 민주주의 방식이다.
자유를 부여하면 인간은 제멋대로 행동하며 나쁜 짓을 한다는 것은 인간을 불신하는 사람이 말한다.인간이 정말로 자유롭다면, 자신의 성격에 맞추어 자기 사람을 자유스럽게 만들 수 있다.나 같은 사람은 전 세계에 단 한사람이다, 라고 하는 먼지가 있다면, 그것을 지키고 싶어진다.그것이 인간의 위엄이다.
책임은 자신의 위엄에 걸맞게 행동하자는 것이다.그러므로 자유는 마음 내키는 대로 하는 것이 아니라 책임을 지는 것이다.


(2) 한번 더 생각하다


"동감할 수 있어도, 한번 더 생각해 보는 것이 좋다. 동감할 수 없어도, 한번 더 생각해 보면 좋다." 이것은, 중국의 낡은 책에 나오는 말이다.


우리는, 여러 가지 의견에 대해서, 그때의 순간적인 느낌만으로 찬성하는 경우가 있다. 놀때라든가, 부담없는 것이라면 그래도 좋지만, 중요한 문제에 대해서는, 그 주장에 대해 찬성했을 때에도, 한번 더 잘 생각하고 나서 찬성한다고 하는 태도야말로 중요할 것이다.
이런 것은 뻔한 일이지만 막상 해보면 실행하기가 쉽지 않다.특히, 많은 사람이 찬성하고 있을 때 등, 무심코 흔들흔들 자신도 말려 들기 쉽다.그 때, 비록 자신으로서는 잘 생각한 것이라도, 막상 결정할 때는, 한번 더 생각해 보는 것-이 신중한 태도를 몸에 익히고 싶은 것이다.


왜냐하면 찬성하는 것에 대해서는 각자가 책임을 져야 하기 때문이다.자신이 찬성한 것을 어느 정도로 실행할 수 있는가.그 때의 내가 할 수 있는 반위를 충분히 생각하고, 어떻게 해서든 자신이 실행할 수 없다고 생각했기 때문에, 무엇이냐고 자신에게 물어보는 것이다.반드시 어딘가에 무리가 있을 것이기 때문이다.그 무리를 얼버무려 두면, 인간은, 체재옥의 괴짜가 되어 버린다.


이번에는 반대로, 동감할 수 없는 경우를 생각해 보자.자신은 반대지만 과연 그것이 옳은지 다시 한 번 생각할 일이다.자신의 의견에 반대 의견이 나왔을 때도 마찬가지여서 당장 반발하지 말고 자신이 틀렸을 수 있다는 점을 다시 한 번 생각해 볼 필요가 있다.원색적으로 비난하면 누구든 기분이 좋지 않겠지만, 인간이란 사실은 비난받을 수 있고, 그걸 어떻게 받아들이느냐에 따라 성장의 중요한 원인이다.


이것은, 소수파의 의견에도 진지하게 귀를 기울이려는 마음에도 통할 것이다.의회나 큰 조직에서는, 결국 다수결로 결정할 수밖에 없고, 거기서 정해진 것을 승인하는 것이 민주주의의 룰이지만, 이 경우, 소수파의 의견은 반드시 틀렸다고 단정해서는 안 된다.
다수파의 주장이 곧 진리라고 결정할 수는 없다.인간이 하는 일에는 반드시 결점이 있으므로, 조금이라도 그것을 가리키는 사람에 대해서는 충분히 그 마음을 헤아리도록 노력하는 것이야말로, 민주주의라고 하는 것이다.마지막에는 다수결로 결정한다 해도, 그 결정법에 문제가 있는 것이다.다시 한 번 생각할 만큼의 여유를 원한다.


"나 하나쯤이야"하고 말한 마음이 우리에겐 있다. 예를 들어 아주 작은 것이지만, 거리를 걸으면서 휴지조각 등을 버리는 일이 있다.자기 혼자만 그런 짓을 해도, 마을은 넓으니까, 대단한 일은 없을 거라고 생각한다.하지만 모두가 비슷한 생각을 하면, 마을은 휴지투성이 된다. 그리고 누가 책임자인지 서로를 모르는 얼굴을 하고 있다.서로 떠넘기면서 무책임하게 되는 것이다.
어떤 의견에 찬성하든 반대하든 자신 한 명 정도는 어떻든 상관없다고 생각하는 데서 무책임한 상태가 나오는 것이다.반드시 책임감을 가질 것. 그러기 위해서, 잘 생각하는 것이 중요하다.잘 생각해서, 게다가 한번 더 생각하는 습관을 몸에 익히고 싶다.간단한 찬성과 쉬운 반대는 모두 무책임의 표현이다.




6. 관련 영상





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